
子供の頃、戦車を爆破して遊ぶオモチャがあった。
地図のような道が印刷された大きな紙の上を、小さな戦車がのそのそと進む。紙の下には直径3センチほどの金属の円盤を仕込む。それが「地雷」だ。
戦車がその上に来ると、底に仕込まれた磁石が反応して、バネ仕掛けの砲塔がバラバラに吹っ飛ぶ。
「今度はどんな吹っ飛び方をするだろう?」とワクワクしながら、戦車を地面スレスレの目線で見守り、爆発の瞬間を待った。
何度繰り返しても飽きず、ちょっとした作戦参謀気分で次の「地雷」をセットし、またドキドキしながら見つめる――そんな遊びだった。
ウクライナ戦争では、ドローンを操縦して敵戦車を狙う光景が日常的に映像として流れてくる。コントローラーを握る手の感覚は、子供の遊びとそれほど違わないのかもしれない。
いや、もしかすると、遊びと戦争の間には想像以上に境界がないのではないか。
道具が精密になり、爆発の結果が「現実の命」になるだけで、人間が夢中になっている構造は同じだ。
あのオモチャはただの子供の遊びでありながら、「戦争そのものの縮図」だったのかもしれない。