追憶画報とは

「追憶画報」では、自分の思い出を絵と文章でまとめて載せています。思い出を少しリメイクして描いているのですが、どんな気持ちや考えで取り組んでいるのかを、ここに書き残しておきたいと思います。

大人になってから絵を描くというのは、意外とエネルギーが要るものです。
「めんどくさい」を上回る楽しさがあるとか、生活の糧になるとか、何かしら意味やメリットがなければ続けるのは難しいでしょう。少なくとも私にとって、絵を描くのは「お腹が空いたからゴハンを食べる」といった生理的な欲求とは別のものです。もちろん、人によってこのあたりの感覚は違うでしょうけど。

では、「思い出」を描くというのはどういうことか。
思い出って、特別な出来事じゃなくても、たいてい何かしらの感情や感傷とセットになっています。逆に言えば、心が大きく揺れた出来事だからこそ「思い出」になるのかもしれません。言い換えれば、それは「人生のカケラ」みたいなものでしょう。人生の一場面がタイムカプセルのように記憶の奥に閉じ込められている。それを、なぜわざわざ絵にするのか?

それは、思い出を絵にする行為そのものに、不思議な面白さがあるからです。
印象的な体験というのは、どこかで「絵になるシーン」や「一連の流れを持った動画」のような形で記憶されています。スマホのシャッターを押した前後が動画として残る機能がありますよね。あれをもっとざっくりした感覚で脳内に持っているようなイメージです。みなさんも、そういう感覚はありませんか?

私の場合、もともと記憶がビジュアル寄りなので、絵にする作業にわりとスムーズに移行できます。(このあたりは人それぞれ感覚の違いがあると思いますが)
さらに、その思い出の出発点となった瞬間のショックや幸福感、ちょっとした寂しさといった感情を、色やタッチにどう込めるかという技術的な工夫もまた面白いポイントなんです。

世の中には「直感視」という、見たものを写真のように記憶する能力を持つ人もいるそうです。そういう人は、目の前にその情景が再現されるかのように描けるとか。
残念ながら私はそういう才能はないので、ぼんやりした輪郭の記憶を拾い集めて再構成する作業になります。それでも、記憶を「絵」としてリメイクする過程は、やっぱり楽しい。

しかも、自分の思い出という完全オリジナルな素材を自分で描くわけですから、できあがる絵にも自然と独自性が宿ります。これがまた大きな満足感につながります。
絵を描く過程で、思い出の元となった体験を改めて再認識し、自分なりのかたちを与える。大げさに言えば、自分の歴史そのものをベースに作品をつくっているので、そこにちょっとした説得力が生まれるんですね。

「追憶画報」は、そんな想いで自分の思い出をリバイバル公開しているコンテンツです。