なぜ呪物を連想したのか——動きのズレについて
ぼくが描いたスケッチや棒人間が、生成AIで動き始めた。
それを見ているうちに浮かんだのが、「呪物」という言葉だった。藁人形、ブードゥーの人型、神社のお祓いのよりしろ——どれも、「誰かを表した形」が、こちらの思いどおりには収まらない力を持つ、という発想に近い。
最初は「絵が実体化しはじめた」ように感じた。だがよく考えると、違和感の芯はもう少し違うところにある。頭の中のイメージと、できあがった動画のあいだにズレがあること。想定していなかった動きが起きること。そして、それが必ずしも悪いことではないことだ。
写真が動くのと、手描きが動くのとは別物
この感覚をはっきりさせるために、別の例を置く。
たとえば、古い家族写真をAIで動かしたとき。感じるのはだいたいこれだ。「覚えていないほど昔の出来事が、AI仕掛けで動く」面白さ。実際に起きた動きではない。それでも、映像になることで当時の気配が蘇り、記憶が刺激される。
手描きの絵を動かしたときの印象は、かなり違う。
写真は、もともと三次元の対象を二次元に閉じ込めたものだ。それが動くと、「凍結が解けた」ように見えやすい。
一方、冒頭の絵は思い出を追った手描きの絵なのだけど、当然二次元のイメージだ。
それが画面は空間となり、時間軸を得て動き始める——ここでは「記憶が蘇る」というより、「イメージが別の経路で組み直されて返ってくる」感じが強くなっている。
「それがアニメーションでしょ」と言いたくなる理由と、それでも残る違い
「絵が動いてそれが呪術っぽく感じるといっても、それはアニメーションの特性から来るものでしょう」——そう言われれば、一見その通りだ。
しかも、スケッチも原画も、どちらもイメージである。描く前から、頭の中ではすでに動かしていることも多い。歩き方、間、視線。絵として描いていても、イメージの段階ではいろいろ動いている。
だからと言って、「静止画が動いたからアニメーション」という説明だけでは、納得しきれない。
では、何が違うのか。
ふつうのアニメーションでは、動きそのものが表現の一部だ。誰かが歩き方を決め、間を決め、ズレがあれば自分の手でやり直す。想定外は起きるけれど、それは、だいたい「修正できる範囲のズレ」だ。
AIで手描きの絵を動かしたときにぼくが感じたのは、もう少し性質の違うズレだった。
頭の中では、イメージはもう動いていたし、ぼんやりとであったが動きの予感もあった。それが、できあがった動画を見ると、想定していなかった角度、間、仕草がある。自分が全部は描いていない動きが、すでに完成形として返ってくる。
アニメーションが「イメージを、自分の手で動きまで組み上げる行為」だとすれば、ここで起きているのは「イメージの一端を渡したら、別の経路で動きが返ってきて、そのあいだにズレがある」ということだ。同じ「イメージが動く」でも、誰が/どこで動きを決めたかが違う。違和感のポイントは、このズレの質にある。
想定外は、失敗とは限らない
このズレは、ネガティブとは限らない。
自分が言語化しきれていなかった気配が出ることがある。棒人間のゆるさが、予想外の間や仕草を許すこともある。「うまくいった/いかない」より先に、「そういう動きもあったのか」と驚く瞬間がある。
だから、これは単なる誤作動の話ではない。イメージが自分の外側で一度組み直され、想定外のほうへ踏み出して返ってくる。その奇妙さと面白さが、同時にそこにある。
呪物っぽく感じるのも、たぶんこのあたりだ。憑いた恐怖というより、自分が全部は支配していない形が、動きが返ってくる感覚。人形を完璧に操っているのではなく、置いてあった人形が、こちらの想定とは少し違う歩き方をして見せる——そんな目線に近い。
あいまいさがズレを呼び込む
さらに興味深いのは、この感覚が「うまい/へた」とあまり関係ないことだ。
洗練された描き方や高度な技法は、ある意味で動きの正解を得やすい。形が具体的であるほど、「こう動くはずだ」という拘束も強くなる。
一方、素朴な棒人間にはあいまいな部分が多い。頭の中のイメージも、細かくは決まっていないことが多い。だからこそ、AIから返ってきた動きとのズレが、よりはっきり見える。未熟さやシンプルさすら、ここでは欠点というより、想定外が入る隙間になる。
プロの漫画家と子どもが描いた棒人間——AIがそれを動かすとき、より奇妙に、時に魅力的に見えるのは後者かもしれない。技法による完成度がなく、イメージがゆるいぶん、返ってきた動きが「解釈」として発揮されやすいからだ。
古い直感が、AIの時代に戻ってくる
そう考えると、古い信仰との接点も少し違って見えてくる。
人類は何千年も前から、「表現された形」が、こちらの思いどおりには収まらない力を持つと考えてきた。呪術、宗教儀式、民俗信仰——形を作り、動かし、しかし完全には支配しきれない、という緊張を含んでいた。
近代は、写真とカメラによって、この直感をいったん薄めたように見えた。「写真は客観的な記録だ」という信仰。デジタル時代なら、「計算結果にすぎない」という説明。
しかし、人の手による描写をAIが動きに変えるとき、あの古い直感がまた目を覚ます。野蛮な迷信としてではなく、「イメージは、固定した瞬間にも、まだ動きうる」ことへの示唆として。
絵は、イメージの受け渡しである
最終的に、ぼくが感じた呪物性は、絵という行為のパワーの証拠でもあると思う。
何かを描くとは、記録だけではない。内側のイメージを、外に形として渡す行為だ。その形は複製で終わらず、受け手——いまならAI——によって、別の動きとして戻ってくることがある。
AIはこの受け渡しを拡張する。二次元から三次元へ。静止から運動へ。一瞬からはじまりとおわりのある時間へ。それぞれの段階で、描き手の意図は保たれつつ、同時にずらされる。そのずれが、娯楽的でもあり、奇妙でもある。
絵とは、完成した情報というより、まだ動きうるイメージの仮の姿だ。そしてそれが動画として返ってきたとき、ぼくたちは「自分が描いた動き」だけでなく、「自分が想定しきれなかった動き」にも出会う。
それが、手描きがAIで動く時に起こることなのだと思う。
